【第11話】みのりの妄想
その日、みのりは、外出して、品川駅に降り立った。
品川駅周辺には、高層ビルがたくさんそびえている。上を見上げると空が狭い。視界を覆うのは、空じゃなくてビルの形にカクカクと切り取られた空だ。智恵子抄じゃないけど、東京って本当に一部の空が失われているのかもなぁ。
八ツ山橋の先で、左手の小道に入る。
旧東海道、品川宿との道標がある。
そうか。ここは旧東海道なのか。そういえば、歌川広重が描いた東海道五十三次の品川は、すぐそばに海が迫っている。このあたりでは、東海道のすぐそばが海だったんだ。普段は景色が良さそうだけど、台風で海が荒れたら通れたんだろうか?ものすごく怖いよね。
広重が東海道五十三次の浮世絵を描いたのは、当時大ヒットしていた滑稽な小説「東海道中膝栗毛」に触発されてのことらしい。みのりの頭の中で弥次さんと喜多さんが楽しそうに歩き出す。品川で二人は何をするんだっけ?
大名行列とすれ違うんだっけ?
昼ご飯を食べたのは川崎だったっけ?
ふと、我に返ったみのりは、目的地を大幅に通り過ぎていたことに気づいた。
新刊の執筆を依頼している著者の事務所を訪ねるため、品川駅から南のほうに向かっていたのだった。まずい、遅刻する……
みのりは、あわてて、旧東海道を江戸方面へ戻った。
そのころ、吉川社長は、先日、立ち飲み屋でいろいろ教えてもらったお礼を兼ねて、立花のオフィスを訪ねていた。といっても、階段をあがるだけである。
立ち飲み屋での話を聞いて、吉川の中には、立花にコンサルティングを依頼したいという気持ちも少々あったが、この経営状況の中で、いかんせん先立つものがなく、依頼することは難しい。しかし、せっかくの縁なので、一回だけ相談しておこうと思って、階段をあがったのだ。
突然の来訪にもかかわらず、立花はちょうどクライアントに報告書を送ったところだと言って、応対してくれた。
社長:先日、身の丈にあった戦略を考えればよいこと、そして、そのためには3C分析が基本になることを伺い、私たちなりに考えたのですが、新しいことを始めようとすると、先立つものと言いますか、人的なリソースが必要になります。どうしても、日常業務が忙しくて、なかなか戦略には手が回らなくなってしまうのです。
立花:秋山さんと野中さんは、電子書籍以前にやられていた仕事はどうしているのですか?
野中とみのりには、電子書籍プロジェクトを進めてもらっているが、従来からの仕事も持ったままだ。野中は社内の情報システムを一手に管理してもらっているし、みのりは紙の新刊やタウン誌の編集作業も掛け持ちしている。
彼らを電子書籍プロジェクトの専任にしてしまうと、従来からの仕事が回らなくなってしまう。
やはり、戦略を実行するということは、うちには難しいのではないか……。
吉川は、少々意気消沈して言った。
吉川:それは兼務してもらっています。なかなか人員にも余裕がなくて……。
立花:なるほど。ご事情、よくわかります。
吉川は、兼務させていることを非難されると思っていたので、少々、拍子抜けした。
立花:ちなみに、詳しくは把握していないのですが、電子書籍を作るという仕事は、片手間でできるような仕事なのでしょうか?
吉川:正直、かなり厳しいと思います。逆に、前回は、兼務だからこそ、できるところまでしかできなかったのかなとも思います。
立花はいくつか細かい点について、吉川に質問し、少々考えていたが、やがて、きっぱりとした口調で話し始めた。
立花:吉川社長、戦略を策定するということは、どこかに会社のリソースを集中するということです。そうなると、当然、捨てるものは捨てる必要があります。たとえば、これからは電子書籍に集中するから、紙の書籍への投資は抑えるといったようなものです。
吉川:それは大きな決断ですね。
立花:はい。
吉川:紙の書籍の担当者たちは反対するかもしれない。
立花:もちろん、そういうことも考えられます。そうなると、一社員がコントロールできるものではなくなります。
吉川:……。
立花:それをコントロールできるのはどなただと思いますか?
少々、考えた後、吉川社長は立花の目を見て言った。
吉川:私ですか?
立花:そうです。社長だけができるんです。超時空社を動かす権限と、覚悟があるのは吉川社長、あなただけです。戦略は社長が作るものなのです。
吉川:戦略は社長がつくる……。
立花:はい。もちろん、「細かな現状分析から戦略の策定まで、すべて社長一人がやれ」という意味ではありません。
社長が主体的に関わり、状況を判断して、決断をするという意味です。
吉川:なるほど。
自分の覚悟とはなんだろうか。その覚悟を支えるものはなんだろうか。会社を継続させていきたい、社員の生活を守りたい、親父が世に出した本を残したい。吉川には守りたいものがたくさんある。自分はそのために、戦わなければならないのだ。戦うために、戦略を作ろう。
吉川は、しばし考えたあと、口をひらいた。
吉川:いろいろありがとうございました。弊社で、といいますか、私が戦略を考えてみようと思います。
立花:ええ、ぜひ、そうされてください。
吉川:最初に伺っておくべきでしたが、本日のコンサルティングフィーは、おいくらでしょうか。
立花:あっ、それは結構です。
吉川:いえいえ、それは困ります。
立花:本当に結構です。私、経営者様向けのセミナーをよく開催しておりまして、そこにいらしてくださった方には、1回分の相談無料チケットを差し上げているのです。
吉川社長には、先週、立ち飲み屋会場でのセミナーにお越しいただきましたので、チケットをお渡ししますね。
吉川:恐れ入ります……。
立花:こちらこそ、引っ越して早々、事務所近くに信頼できる隣人ができて、心強いです。
吉川:ありがとうございます。今すぐに、御社にコンサルティングをお願いできるわけではないと思いますが、今後とも、よろしくお願いいたします。
階段を降りる吉川の足取りは、力強くなっていた。
つづく
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ユアスト 江村さん
第1話は下記より御覧ください。
【第1話】超時空社